清拙正澄

よみ:せいせつしょうちょう

年代:1274年-1339年
中国でも当時屈指とされた禅僧で、五三歳のとき、日本から招かれ永源寺開山の寂室元光らとともに来朝し、建長寺をはじめ、京都、鎌倉の諸禅寺に歴任し、日本の禅林に大きい影響を与えた。

破菴派(大鑑派)。大鑑禪師。
愚極至慧に嗣ぐ。福州漣江の人。俗は劉氏。月江正印の俗縁の弟。別に畢竟滅と号す。
宋の咸淳十年(日本文永十一年‐1274)正月三日生。福州南の報恩寺に月溪紹圓に就いて出家。鼓山の平楚□聳・淨慈寺の愚極至慧・淨慈寺の方山文寶・靈隱寺の虎巖淨伏・育王山の東岩淨日・蒋山の月庭・仰山の虚谷希陵・仰山の晦機元煕に参ず。袁州鷄足山・松江の眞淨寺に住す。

日本の檀信が月山友桂を専使として招請するにより、元の泰定三年(日本嘉暦元年‐1326)六月、弟子永鎮を伴い、出帆。八月博多着岸。建長寺・淨智寺・圓覺寺・建仁寺・南禪寺に住す。建仁寺退居寮禪居庵に帰隠。暦應二年(1339)正月十七日示寂。古林清茂・月江正印等と元末禅林史上、偈頌作成の盛行を齎した。『清拙和尚語録』二巻、『大鑑清規』一巻がある。

『禪居集』は、清拙が本国に在った時の述作で、『雜著』は来朝以来の詩文である。『新纂禪籍目録』によると、『(清拙和尚)禪居集』とは、この渡来前の文集を前編とし、渡来後の『雜著』を巻末に付したものを言う。

『(清拙和尚)禪居集』は、正和4年(1315)刊本が大東急記念文庫に蔵される。他、正徳2年(1712)刊本(京都赤井長兵衛)・寛政2年(1790)刊本(『清拙和尚語録』の付)がある。写本が内閣文庫(南堂了菴禪師偈頌を付す)・成簣堂文庫に蔵され、東京大学史料編纂所には、上村観光蔵本写がある。


小笠原 貞宗

よみ:おがさわらさだむね

時代:鎌倉時代
年代:1294年or1292年〜1350年8月25日or1347年5月26日

南北朝時代の武将。宗長の子。元弘の乱以来足利氏に属し、信濃守護となり、北条氏遺領の伊那郡伊賀良荘や信濃春近領などを守護領とし、建武年間(1334‐38)居館を伊賀良の松尾(飯田)から府中南郊の井川(松本)に移し、小笠原氏発展の基を築いた。近江・越前・美濃・常陸等を転戦。三階菱
傍ら禅道に精進し、宋僧清拙正澄を請じて伊賀良荘内に開善寺を建立。また弓馬に秀で、幕府の的始・笠懸・犬追物にしばしば参加した。

戒名  開善寺殿泰山正宗大居士

と言うわけで、開善寺の紋は小笠原の三階菱(さんがいびし)である。

開善寺に勅修百丈清規が伝わっている事もあって、小笠原流礼法とも関連があるかもしれない。

臨済宗

よみ:りんざいしゅう

中国で発展した禅宗の1宗派。達磨ののち、6祖慧能にはじまる南宗禅は、黄檗希運(おうばくきうん)にいたって豪放で自在な気風を生んだ。この禅風をうけついだ高弟の臨済義玄(ぎげん)が臨済宗の開祖となった。7代目の楚円(そえん)の門下から黄竜慧南(おうりょうえなん)と楊岐方会(ようぎほうえ)がでて、黄竜派、楊岐派をたてた。この2派は中国禅宗の五家七宗の中でもっともさかえた。

日本の臨済宗
日本臨済宗の開祖となったのは栄西である。栄西ははじめ比叡山で天台教学をまなんだが、南宗禅をまなぶため、1168年(仁安3)と87年(文治3)の2度にわたり中国に渡航した。黄竜派7世虚庵懐敞(こあんえじょう)のもとで臨済禅をまなび、91年に帰国した。帰国後は博多に聖福寺をたてて、禅を布教した。ついで、幕府の信任をえて鎌倉に寿福寺を開創し、1202年(建仁2)には将軍源頼家が京都に建立した建仁寺に開山としてむかえられた。栄西の法系を千光派といい、禅密兼学の優秀な学僧を生んだ。

1211年(建暦元)には楊岐派7世蒙庵元聡(もうあんげんそう)のもとで修行していた俊?(しゅんじょう)が帰国し、はじめて楊岐派の法系をつたえた。鎌倉時代から室町時代にかけては、中国からの渡来僧が数多く来日した。彼らは宋風の純粋禅をつたえ、鎌倉と京都の官寺を中心に五山派を形成して宗教界に君臨し、宗教・芸術の面でも大きな功績をのこした。五山派の衰退とともに大徳寺と妙心寺が台頭し、江戸時代にはいると白隠がでて、独自の公案を重んじる法系を確立した。1654年(承応3)には楊岐派24世の隠元が来日したが、黄檗宗をたてて別宗とした。

臨済宗には現在、京都・鎌倉の大寺を本山とする14派が(黄檗宗を入れると15派)ある。


五山派

よみ:ござんは

五山とは室町幕府の管轄下にあった京・鎌倉の有力な寺院のことで、京都五山(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)、鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)と京のみ五山之上として南禅寺がある。
この五山制度が確立されたのは、至徳3年(1386年)足利義満の時である。

・五山文学
日本において中世期から近世前期にかけて、京都、鎌倉の五山派諸寺院を中心として行われた漢文学である。

・五山文学の始まり
唐宋の間に興隆した中国禅宗は、北宋末期頃になると、科挙に合格した官僚貴族である士大夫階層とのつながりを強め、禅宗諸派に広がっていった。日本からは、平安末から鎌倉時代にかけて多くの僧侶が入宋を果し、「拈華微笑」「以心伝心」「教外別伝」「不立文字」 と称される中国禅宗に触れる機会を得た。
帰朝後、彼らが日本国内に教線を伸ばすに従って、その門庭にも宋元流の文事が学ばれるようになった。 また帰朝僧の他にも無学祖元や一山一寧などの鎌倉期の来朝僧も、文事の移植に貢献し、雪村友梅、虎関師錬、中巌円月などの文筆僧を生んだ。


畳秀山

よみ:じょうしゅうざん

山畳秀色 人開善化
山は秀色を畳み、人は善化を開く。から
(やまはしゅうしょくをたたみ、ひとはぜんけをひらく)


中興開山

よみ:ちゅうこうかいさん

寺院を再興した住職のこと
開善寺では速伝宗販(そくでんそうはん)本覚霊明禅師と諡号された。
飯田大雄寺三世。


開山

よみ:かいさん

初代の和尚さんのこと。読みは「かいさん」であり「かいざん」とは読まない。
禅宗寺院では、開山様(かいさんさま)といい、非常に重んじる。


聖観世音菩薩

よみ:しょうかんぜおんぼさつ

 旧訳では観世音と訳される。
「世の中の衆生の声・音を聞き観じて、直ちに救済して下さる」という意味。
新訳(7世紀、玄奘三蔵以後)では観自在と訳される。
「観る事に自在な」という意味。

異名

救世菩薩、救世浄聖、施無畏者、蓮華手
施無畏というのは「畏れ無きを施す」つまり安心を与えて下さるという意味。

大仏頂首楞厳経(5、6)では、25人の菩薩・阿羅漢が諸(々)の方便によって円通を得たことが記され、そのうち、耳根を通じてさとりを得た観世音菩薩が最上であるとされている。このことから観世音菩薩のことを〈円通大士(えんつうだいじ)〉という。

勢至念仏円通して、五十二菩薩もろともに、すなはち座よりたたしめて、仏足頂礼せしめつつ〔浄土和讃

開善寺の玄関には「無畏」の扁額がある。


栄西

よみ:えいさい《ようさい》とも。

 1141(保延7)-1215(建保3) 日本臨済宗の祖。鎌倉幕府の帰依を受けた最初の禅僧。号は明庵(みんなん)。葉上房、千光法師とよばれる。備中(岡山県)吉備津神社の社司賀陽氏の出で、叡山で台密を学ぶが、山上の祖師たちの渡海求法の後をついで、28歳で5か月、47歳より5年の2度入宋。天台山に巡礼し、天童山で虚庵懐敞(きあんえしょう)より臨済宗黄竜派の禅と戒を受けた。第2次入宋は、西域よりインドに赴いて親しく仏陀の遺跡を礼する計画であったが、金軍の南下で断念。

帰朝後、京都で教外別伝(きょうげべつでん)の禅を説く日本達磨宗の大日能忍(だいにちのうにん)とともに叡山の弾圧をうけ、興禅護国論を上進して仏法の総府、諸教の極意としての禅宗の立場を弁明する。幕府の帰依で、寿福寺や建仁寺を創し、東大寺再建の大勧進となるなど、広く日本仏教の中興につとめる。

晩年、源実朝に献じた喫茶養生記は医薬としての茶の効用を説いたもので、当時は最新の百科全書であった太平御覧によっていて、国際的教養人としての一面をあらわす。ほかに、教時義勘文(1176)、菩提心論口訣(1187)、出家大綱(1200)など、台密と戒律の著作がある。


聖福寺

よみ:しょうふくじ

福岡市博多区御供所町にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は安国山。1195年(建久6)栄西は博多に1寺を創建することを源頼朝(1147-99)に願いでて許され、10年近い年月をかけ1204年(元久1)完工し、建仁寺(京)・寿福寺(じゅふくじ)(鎌倉)の2寺と合わせて禅の三大道場と呼ばれた。

後鳥羽上皇(1180-1239)より「扶桑最初禅窟」の宸翰を受け、後に諸山(しょざん)甲刹(かっさつ)ついで十刹に列せられた。寺宝には、大鑑禅師画像・高峰断崖中峰三師画像や天正17年小早川隆景寄進銘のある朝鮮鐘など多数を所蔵する。


開基

よみ:かいき

基(もとい)を開くこと、またその人の意で、寺院を創建した人をいう。通常、経済的基礎を提供し、仏寺を創設した在家の信者をさす。開基に対し、創設された寺院の初代の住職となった人を開山(かいさん)というが、開基が開山を指す場合もある。


禅林

よみ:ぜんりん

北周の(ゆ)信五張寺の経蔵の碑に春園柳路、変じて禅林に入るとあり、禅宗寺院のこと。叢林(そうりん)ともいう。禅の修行者が諸方から集まって修行している所を叢(くさむら)や林に喩(たと)えたもの。

多くの比丘、一処に和合する、是を僧伽と名づく。譬えば大樹叢聚する。是を名づけて林と為し、一一の樹を名づけて林と為さず、一一の樹を除きてまた林無きが如し。[大智度論(3)]

とある。

凶霧を払って禅林の蘂(はなぶさ)鮮やかに開け、濁波を清(すま)して定水の流れ潔く清(す)む〔澄憲作文集

山号

よみ:さんごう

寺名の上につけられる〈山〉の称号。中国で、寺の所在を示すため用いたのにはじまる。わが国では、奈良時代には、寺は主に平地に造られたので山号はなく、平安時代、山上に造られた寺は比叡山・高野山など山の名を用いたが、いわゆる山号ではなかった。
中国で禅宗の代表的寺院に五山・十刹の制が定められ、鎌倉時代、禅宗とともにこの制がわが国に伝えられると、巨福山建長寺など寺名の上に山号が付けられるようになり、鎌倉五山・京都五山などがえらばれた。その後、他の宗の寺院も、寺名の上に山号を付けるようになった。

東山は建仁寺の山号なり。九淵は東山の僧なり〔中華若木詩抄(中)

建長寺

よみ:けんちょうじ

臨済宗十四派の一、建長寺派の本山。鎌倉五山の第一、1249年(建長1)、北条時頼を開基とし、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建された。山号は巨福山(こふくざん)。わが国ではじめて純粋の宋朝禅を鼓吹した禅刹として名高く、蘭渓の大覚派、兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念、無学祖元の仏光派、一山一寧(いっさんいちねい)らが競って住持し、鎌倉禅刹の中心として寺門は大いに栄えた。1293年(永仁1)と1315年(正和4)に火災にあったが、1331年(元弘1)までには創建当初に近い規模で再建が終っている。その後室町時代にも火災にあい。江戸時代には仏殿・唐門が復興、ついで山門・法堂が再建されて現在にいたる。往時は塔頭49院を数えた。

伽藍配置は、総門・山門・仏殿・法堂が中央の直線上に並ぶ中国禅院の様式を伝える。山頂には奥の院・坐禅窟・半僧坊がある。仏殿には本尊地蔵菩薩像(室町時代)を中心に千手観音像・伽藍神五躯像(いずれも鎌倉時代)を安置、方丈には宝冠釈迦如来像(鎌倉時代)を安置する。寺宝として、時頼・蘭渓らの銘のある創建当初の梵鐘(1255年)、絹本淡彩蘭渓道隆像(1271年自讃)、蘭渓の墨跡をはじめ、絹本着色釈迦三尊像(南宋)、木造北条時頼坐像(鎌倉時代)、絹本墨絵観音像(室町時代)など、多数の優れた文化財が伝わる。また塔頭(たっちゅう)にも多くの文化財が遺されている。鎌倉市山ノ内。


十刹

よみ:じっせつ 《じっさつ》とも読む。

官寺機構の一で、五山につぐ地位にある10の禅宗寺院をいった。中国において南宋(1127_1279)末頃、五山十刹の制が定められ、日本でもそれにならって設けられた。文献上では五山より少し遅れて建武年間(1334-37)から現れる。五山は京・鎌倉のみであったが十刹は地方にもあり、また10カ寺に限定されず時と共に数を増し、単に寺格を表すものとなり、江戸期はじめには60余カ寺に達した。

洛中洛外の諸社、諸寺・五山十刹・公家・門跡の滅亡は、かれらが所行なり〔樵談治要〕。

飯田市

いいだし

長野県南部、伊那盆地(伊那谷)南部と周辺山地を占める。1937年市制。1993年北隣の上郷(かみさと)町を編入。市街は盆地を流れる天竜川右岸の段丘上にある。堀氏などの城下町、三州街道の宿場町として発達、小京都と呼ばれ、1947年の大火までは碁盤目状の町並みがよく残っていた。

復興後の市街地はリンゴ並木が防火帯に植えられ、整然とした街並で、都市計画のモデルとされている。飯田線、中央自動車道が通じ、近年は電気機器、精密機器工業が盛んで、在来工業では製材・製糸業のほか、水引凍り豆腐を特産。旧上郷町を含む周辺山地では農林業を主とし、ナシ、カキ、リンゴを多産。天竜峡がある。325.35km2。10万7381人(2000)


長野県

ながの【長野[県]】

本州中央部にある中部地方の。県庁所在地は長野市。1万3585.22km。220万0468人(1999)。
〔沿革〕 かつての信濃国にあたる。源平内乱期には木曾義仲が台頭、戦国時代には村上氏、武田氏、上杉氏らの角逐があった。江戸時代には11藩が分立。木曾は幕府直轄地であった。1868年伊那県設置、翌年中野県(のち長野県)を分置、1871年伊那・中野両県のほか12県を設置、1876年信濃全域が長野県となる。1998年冬季オリンピック大会の開催地。

〔自然〕 内陸県で、日本の屋根と呼ばれる山岳地帯をなす。県の北北西から南南東にかけて糸魚川(いといがわ)-静岡構造線が走り、この西側に北から飛騨山脈(北アルプス)、木曾山脈(中央アルプス)、赤石山脈(南アルプス)が帯状に配列する。飛騨・木曾両山脈の間に木曾川の谷(木曾谷)、木曾・赤石両山脈の間には、天竜川が南流する伊那盆地(伊那谷)がある。北境に飯縄(いいづな)、黒姫、東部に四阿(あずまや)、浅間、八ヶ岳、蓼科(たてしな)の火山群があり、いずれも広いすそ野をもつ。中部の筑摩山地が千曲川流域の長野・上田・佐久盆地と、西の糸魚川・静岡構造線に沿う松本・諏訪盆地を分けている。中央高地型の気候区にあり、降水量は少なく、夏は高温、冬は寒冷乾燥。北部は日本海側気候区の漸移地域で雪が多く、南の伊那盆地は東海型気候に漸移して温和。

〔産業〕 産業別人口構成は第1次13.1%、第2次36.0%、第3次50.7%(1992)で、農林業県の傾向が強いが、第2次大戦後は近代工業が発展。耕地はきわめて少ないが、各盆地では米の反収が多い。山腹、扇状地、河岸段丘ではクワ畑に代わって第2次大戦後果樹、野菜の栽培が盛んとなり、特にリンゴ、ナシ、ブドウは全国有数の収穫量を上げている。火山麓の高原では高冷地野菜栽培と酪農が発達。特産に松本盆地のワサビ、諏訪・長野・佐久盆地の花卉(かき)、長野盆地の巨峰ブドウ、アンズがあるが、ソバの栽培は減少した。林野の3分の1は国有林で、千曲川上流、木曾谷、赤石山脈に多く、特に木曾のヒノキ美林は有名。戦前までは製糸業が発達していたが、戦後は衰退した。1964年松本諏訪地区が新産業都市に指定され、松本盆地、諏訪盆地を中心に光学器械、精密機械、電気機械部品、通信機械などの工業が発展。他に伝統的な諏訪地方のみそ、寒天、飯山のスキー、奈良井の漆器などを特産。製造品出荷額では6兆2270億円(1993)を上げ、中部地方では愛知、静岡に次いで3位である。山岳美を誇る観光県で、中部山岳、上信越高原、南アルプスの3国立公園、八ヶ岳中信高原、天竜奥三河、妙義荒船佐久高原の3国定公園があり、温泉、スキー場が各地に散在、善光寺、松本城、諏訪大社など社寺、史跡も多い。

〔交通〕 千曲川流域の各盆地を結ぶ信越本線と国道18号線、山梨県から諏訪地方を経て木曾谷に通じる中央本線と中央自動車道、国道20、19号線を幹線とし、東部に飯山線、小海線、上信越自動車道、南部に飯田線、北部に篠ノ井線、大糸線、長野自動車道が通じる。また長野盆地を中心に長野電鉄、上信越自動車道が通じる。松本市南端に松本空港があり、1993年10月ジェット化のための工事が完了し、札幌、仙台、大阪、福岡などと結ばれる。


天竜峡

よみ:てんりゅうきょう

中流の峡谷(名勝)。1847年阪谷朗廬によって天竜峡と命名されたといわれ、1882年には姑射橋(こやきょう)・竜角峰などの十勝が選定され、岩壁にその文字が刻まれた。長野県飯田市時又付近から下流で、両側に山が迫って花コウ岩の深い谷をなし、特に飯田線天竜峡駅付近の姑射橋は花コウ岩の直方状節理が顕著で風光にすぐれる。飯田市弁天〜天竜峡〜唐笠(からかさ)に天竜下りの遊覧船がある


伊賀良荘

よみ:いがらのしょう

最初の領家(りょうけ)(寄進された貴族・寺社)は、藤原氏に関わる妙高院領(みょうこういんりょう)で、次に後白河法皇(ごしらかわほうおう)の妹領に移った。鎌倉時代の地頭は北条時政(ほうじょうときまさ)だったが、1329年北条氏支族の江間(えま)氏に伝えられた。
北条氏滅亡後は、小笠原氏の所領となり、南北朝期以降長い間支配された。荘域は、最初は飯田松川から阿知川までの天竜川西岸だったが、その後、現在の下條村・阿南町・天龍村の一部まで拡大された。

現在、飯田市南西部に伊賀良(いがら)という地籍があって、荘園名を今に伝えている。。


伊那谷

よみ:いなだに

古くから「伊那谷」と称してきたが、実は谷ではなくて盆地だった。天竜川の両岸に、天竜川の侵食・堆積作用によって河岸段丘が形成された、と考えられていたが、実は断層活動によってできた段丘であった。詳しくは伊那谷物語へ。


右岸・左岸

河川の右岸・左岸は、共に上流から下流を見てその左右を言う。

飯田市を通る天竜川は、南北に北から南へ流れているので、右岸は西側と言うことになる。飯田市では竜東(りゅうとう)(天竜川東側)竜西(りゅうさい)(天竜川西側)といった言い方をする。


隠元

よみ:いんげん

隠元 中国明代の禅僧で、日本の黄檗宗の開祖。長崎の福州人の請いによって1654年に来日。
隠元は臨済宗系の禅僧であり、福州の黄檗山萬福寺において、古黄檗と呼ばれる一派の長老であった。

来日後は、幕府・天皇から宇治に寺地を貰い、同名の黄檗山萬福寺を開創し、そこを黄檗宗(新黄檗)の本山とする。公武の信望が厚く、真空大師の号を贈られている。

インゲン豆(原産地中米)は、隠元が中国から伝えたものとされ、その名を残している。


白隠

よみ:はくいん

白隠慧鶴(はくいんえかく) 1685(貞享2)-1768(明和5)
江戸時代の禅僧。僧名を慧鶴(えかく)といい、白隠は道号である。別に鵠林とも号した。駿河(静岡県)の出身。15歳で松蔭寺の叔父単嶺祖伝を師として出家、ついで沼津の大聖寺の息道に随侍し、清水の禅叢寺の衆寮に学ぶ。20歳、美濃(岐阜県)の瑞雲寺馬翁に参じ、24歳の春、越後の英巌寺で徹宵(てっしょう)坐禅をし、遠寺の鐘声を聞いて見性(けんしょう)した。

三百年来自分ほど痛快に悟った者はいないと慢心を生じたが、信州に正受(しょうじゅ)老人(道鏡恵端(どうきょうえたん))を訪ねて、その悟りを奪われ、老人の下で真参実修、一日城下を托鉢中に徹底大悟した。白隠が正受の所に留まったのは8か月にすぎなかった。正受の室内を尽していなかったので、26歳のとき師兄(すひん)の宗覚より〈五位変尽〉の秘訣を受けた。
江戸時代に

「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山に原の白隠」

と詠われた。


宸翰

よみ:しんかん

天子の直筆(じきひつ)の文書。宸筆(しんぴつ)。


扶桑

よみ:ふ‐そう

ここでは(3)の意味で、「日本最初の禅寺」ということ。


圓通

よみ:えんずう

 《えんつう》とも。あまねく通じ達すること。すべてにわたって滞ることなく融通無碍(ゆうずうむげ)であること。仏・菩薩のさとりの境地をいう。〈円通無碍(むげ)〉〈円通自在〉などと用いる。


百丈清規

よみ:はじょうしんぎ。《ひゃくじょうしんぎ》とも。

 中国元の元統・至元(1333〜40)のあいだに、百丈山の住持東陽徳輝が、時の天子恵帝順宗の勅命をうけて編集したもの。宋代の『崇寧清規』『叢林校定清規総要』、元の『禅林備用清規』を資料として集成し、1338年(至元4)に完成をみた。この清規を『勅修百丈清規』と名づけて天下の禅林に遵守せしめた。

 これによって全国の禅林の規則を調整して、日常の生活規範を定めたのである。以後この清規によって禅林が律寺から独立し、禅林の準拠するものが確定したのである。『百丈清規』は、上・下二巻、祝釐・報恩・報本・尊祖・住持・両序・大衆・節臘・法器の9章よりなっている。一般に清規を儒家の礼に比較して説くものが多い。唐末から宋代にかけて禅宗が一世を風靡したのは、この清規の整備に一因を求めることができる。

 『百丈清規』は、明代に入っても天下の禅林で謹守することが求められ、わが国には鎌倉時代に輸入された。


清規

よみ:しんぎ

禅門において、修行僧が範拠とすべき仏道修行の生活規則をいう。

〈清〉は清浄大海衆(清浄に修行する僧衆)の意で、仏法の大海に入って行ずる衆僧はいずれも同一味の解脱(ゲダツ)を得た清衆であることをいい、この清衆の日分・月分・年分の行持(ギヨウジ)の規矩を指して清規という。

唐代に百丈懐海(ヒヤクジヨウエカイ)が大乗と小乗の両方の戒律を参照して制定したのにはじまり、以後これを規範として、禅苑清規(1103(崇寧2))、入衆日用清規(1209(嘉定2))、叢林校定清規総要(1274(咸淳10))、禅林備用清規(1311(至大4))、幻住庵清規(1317(延祐4))、勅修清規(1337(至元3))の成立をみ、日本においては永平清規、瑩山清規、大鑑清規、黄檗清規、小叢林略清規の成立をみた。

 清規の中に、禅僧の威儀ををさむべきやうを説かれたる事微細なり。〔夢中問答(下)