奉安殿

2008/10/01

今は昔

今昔物語の冒頭である。「今では昔のことであるが」ということだろうか。古文は苦手だった。(なにか得意なものはあったのか、という問いは無視)

今は昔。全国の小学校には「奉安殿(ほうあんでん)」というものがあったらしい。戦後生まれの私は、話に聞いただけで実際には知らないことである。奉安殿にはご真影(ごしんえい)と教育勅語(きょういくちょくご)が収められていたらしい。

また、「奉安殿の前を通る際には必ず礼をする」とか「久米 正雄の父、由太郎」が小学校の校長の時に、奉安殿が火災で消失し責任を取って自殺した、とか。そのくらいの知識しかない。

長野映研というところから電話があった。満州開拓団の映画を作るのだそうだ。この地方からは大勢が満州へ行きその出発の際には奉安殿に参ったとか。その部分の撮影にご協力願いたいと。開善寺には奉安殿だった建物はある。しかし長野映研は長野市に本社があり、支店も松本・上田・新潟と飯田の地とはかなりの距離がある。その間には奉安殿は残っていないのだろうかと、疑問に思った。

昔ありけり

そこで昔ありける奉安殿はどのくらい残っているのだろうかと、webで見てみると、やはり関心を持った方はおられて、奉安殿を訪ねて「奉安殿」とは何かなどのサイトが参考になった。それらによれば、長野県内では

この三点である。飯田市のことは判明しなかった。ここにあるものは掲載されていなかったので、まだまだ全てを網羅しているわけではなさそうである。判明しているこれらの元奉安殿はドキュメンタリー風の映像には耐えないのだろうか。開善寺の一角にある元奉安殿は、いくらか神社風な建物である。耐火のために土蔵造りで白壁に仕上げてある。正面から見ると厳重な鉄の扉が付いている。扉の上には菊の紋章が付いている。手前に移っている針金は、幕を吊るためのものである。そして扉の錠前丸に五七の桐の紋章で隠されている。

昔話

開善寺に奉安殿が移築されたのは、些か変わった因縁がある。普通に考えれば奉安殿を壊さずに移転するとすれば、神社の方が相応しい。まして開善寺は、ここの小学校の通学地域では一番の辺境に当たる。その地に奉安殿を移築したのは本来の計画ではなかったようである。

最初GHQから神道指令が出た当初は、小学校のすぐ横の神社内に移転された。今でもその片鱗が遺されていて、草むらの中に階段だけがその時の位置を示している。奥に見えるのは現在の小学校の体育館で、以前は本校舎が在った場所である。これでは移転した意味のないことをGHQから指摘され、その後他の神社や寺院に移転先を求めたが、そのすべてに断られ、開善寺がその移転先を受け入れた。移転後GHQから、「なぜ奉安殿をここに移築したのか」を問われ、時の住職は「世界の戦争犠牲者を慰めるため」と答えたそうである。

今の話

現在は尚和殿(しょうわでん)と名付けていて、毎年秋に慰霊祭を行っている。以前は神官と僧侶とでおこなっていたが今は私だけで修行している。お参りの皆さんには合掌しご焼香をしていただく。毎年遺族の方々はその数を減らしている。遺族が増えるはずがないからだ。

これから

今から以降遺族の数は増えないでほしい。そしてお参りは住職だけが行い、参詣者が誰もいなくなるだろう。それでもお参りをすることになるだろう。これは先住の未来予測であり、戦後を暮らしてきた人の願いでもある。しかし、奉安殿をはじめとした色々な出来事を奉安殿のそのほとんどを壊したように「なかったこと」にしてはいけないはずで、開善寺には、たまたま奉安殿がほぼ完全な姿で保存されている。「そういう時代があった」ことの象徴として大事にしていくべきだろう。