学童疎開ということがあった

2010/04/18

学童疎開

今から65年前にある戦争が終わりました。終戦に至る戦闘が行われているときに学童疎開が実行されました。長野県にもおおくの学童が疎開し(させられ)ました。開善寺にも世田谷区の国民学校守山小学校の一部の生徒たちがやってきました。

国の政策で行われたのです。今であれば疎開に必要な物資は行政が準備・配置するものと思いますが、当時そこまでの行政能力は既に無く、いくらかの費用が用意されたのみで、疎開先の施設(例えば寺院)が食料などを確保したようです。

田舎でも食料が潤沢にあるはずもなく、その中で地元(本当の意味で地元、近所周り)の方が差し入れや食糧の確保に立ち向かいました。ここに残る写真はその当時のものです。写っている和尚は京都から17年の暮れに来たばかりの、当時28-9歳。画像を見ると庭も草が生い茂っています。幾年か住職が空位の後に来たばかりで、さぞ大変であったろうと思われます。

学童疎開時の写真

  • sokai01.jpg

    お宮の前での記念写真。上川路(疎開先)ではなく、おそらく松尾の八幡神社前判明しました

  • 開善寺本堂前

    開善寺本堂前での記念写真

  • 本堂前池の手前での記念写真

    池手前での記念写真。写っている老松は既に無い。

  • 本堂前での写真

    本堂前での記念写真。和尚の衣は雲水衣らしい。

  • 信夫松と共に

    鐘楼脇に「信夫松」(しのぶまつ)記念樹を植えた。昭和19年11月5日とあるが昭和40年代には既に無かった。「信夫」(しのぶ)は「堪え忍ぶ」ではなく、竜丘村は「信夫村」(しのぶむら)となっていた時代がある。それにちなんだ名前。

  • 竜丘小学校

    疎開児童たちは地元の竜丘国民学校へ通った。独立したクラスを作り、地元児童との混成ではなかった。写っている校舎も既に建て替えられた。

  • 上川路 宮ノ前で

    奥に見える鳥居は上川路の八幡神社。写っている方は地元の方だろうが、氏名不詳。大人の側にいるのは地元の子供。

  • 相撲大会

    山門の広場で相撲大会。

  • 法鼓を打つ

    本堂にある法鼓(ほっく)(太鼓)を打つ。中にあるものだが縁側から打っている。

  • こたつ

    児童たちは本堂で生活をした。本堂には畳一畳分の広さの炉が幾つか切ってあって、そこへ枠を置き、掘りごたつとした。幾つか穴が開いた障子の奥は内陣。

  • 鐘撞き堂横記念写真

    鐘撞き堂横、記念写真。このサクラも既に無い

  • いろり端

    いろり端だが場所が判然としない。お寺にもいろりはあったのだが、管理人が来たときには跡形もなかった。

  • 炭焼き小屋

    炭焼き小屋。かつて、開善寺では炭を焼いていた。地区内にはかつて三ヶ所ほど炭焼き小屋があったそうだ。

  • 盆踊り

    盆踊りのようだ。

  • 遠足

    天竜峡への遠足。車なら近いが子供の足だと片道一時間はかかる場所。

実際は一斉に疎開してきたわけではなく、5年生になって疎開したようです。国民学校を卒業すると、疎開児童の対象ではなくなるので東京へ帰り空襲に遭って亡くなった児童が少なからずあるようです。

このファイルは昨日から今日(19)にかけて上げたのですが、奇しくも19日に、守山小学校の疎開の際の引率者であった T 先生のご子息が来山されました。(この方も開善寺で生活した)何かの符合を感じました。

 代田神社のこと(訂正)
その後疎開児童であった方が来山された際に伺うと、「世田谷区にある代田(だいだ)の八幡様でしょう」とのこと。画像にある「代田(だいだ)」で勘違いをした。代田は神饌(しんせん)を得るための「田」を意味する。近隣の八幡様の近所にも「代田(しろだ)」という地籍がある。当地方には神稲(くましろ)という場所さえある。全国的に神社の付近に「代田」という地名がある可能性は大きい。(2010/07/04 お話を伺ったのは5月中旬)