梅の花の精

2007/01/09

開善寺の某所で咲く梅。
例年11月末には咲き始める。

信濃国伊奈郡にある開善寺の早梅花は、他に類例のない名木として有名である。冬至の前後から咲きはじめ、清浄な芳香が四方に漂う。近郷隣村の人々、また遠方からも情趣を解する人々が、毎日これを観賞しに集まってくる。

もともと信濃国は、天候が陽気とは言えない寒い地方である。冬は雪が深く、先に降った雪が溶けて消えないうちに、その上にまた雪が降り積もる。嵐が烈しく吹き荒れる。したがって草木が萌え出づるのは遅いのだが、この寺の早梅花はまさしく花の長兄として、清冽な寒気に堪えてつぼみが開きはじめる。その時期は毎年、決してずれることがない。開善寺の早梅花を賞賛しない人がいない所以である。

あるとき、村上頼平の家臣に埴科文次という者がいた。情け深い性格で、武芸を学ぶ暇にも和歌の道に愛着があった。出征中のときでも、辺りの風景に興趣が湧くような場所では歌を一首詠んで思いを表現し、諸軍の武士を感心させた。このように優雅な男であったので、文次を悪く言う人はいなかった。

当時、甲斐国の武田と信濃国の村上との争いが起こり、双方陣地を構えて決戦に臨んだ。ある日、出陣の折に文次は、開善寺の梅は今が盛りであると耳にした。その日の夕暮れ、文次は中間を一人連れて陣中をひそかに抜け出し、心を弾ませて開善寺に行った。梅の花の香りを楽しみながら、

南枝向暖北枝寒 一種春風有両般
南枝は暖に向かい、北枝は寒し 一種の春風、両般あり

という詩を吟じた。すでに山の端にかかる月の光が梅の花を照らし、そのえも言われぬ美しさに感動した文次は、さらに歌を詠んだ。

響き行く鐘の声さへ匂ふらむ 梅咲く寺の入相の空
この寺では、鐘の音さえ梅の香りに満ちている

そこへ不意に、この辺りでは見慣れないような一人の女が現れた。侍女を一人連れていた。年の頃は二十歳ほどであろうか、白い小袿(こうちぎ)に紅梅の下襲(したがさね)が優美で、匂うような絶世の気品があった。月明かりの下で、女は梅の花に向かって歌を詠んだ。

眺むれば知らぬ昔の匂ひまで おもかげ残る庭の梅が枝
昔のとても美しかった花の面影まで、この梅には残っているようです

歌を詠んだ後、女はしばらくたたずんでいた。

この歌を聞いた文次は不思議に思い、言葉を交わしたい気持ちに堪えかねて女に近づいた。文次は女の袖を引いて、

「今宵の月の光と輝きを競うのは、この寺の梅だけではありません。あなたの姿と袖の香りもそうですよ」

などと、ふざけた口調で言った。女は男の言動にそれほど驚いた様子もなく、

「梅の香りに誘われて、月に思わず歌を口ずさんでしまうようなこの夕暮れに、あなたのような優雅な方にお目にかかれるとは、何とうれしいことでしょう」

と言った。女のしっとりした雰囲気、雅やかな振る舞い、その魅力はこの世のものとは思えなかった。

文次は即座に、中間に命じて酒を売る家を探させた。文次は女と御堂の軒に座り、買い求めた酒を数杯傾けた。酔いが進んで場が和み、文次は女に向かって親密な口調で歌を詠んだ。

袖の上に落ちて匂へる梅の花 枕に消ゆる夢かとぞ思ふ
袖に落ちた梅の花は、夢のなかで契った女性のようだ

これに対し、女はすぐに、

しきたへの手枕の野の梅ならば 寝ての朝けの袖に匂はむ
契りを交わす相手が梅の花ならば、翌朝はとてもよい香りが残っているでしょう

と歌を返した。二人は互いに密着し、懇ろに契ったのであった。何杯もの酒を傾け、文次は酔ってその場に寝てしまった。夜はやがて明け方になり、東の空に雲が棚引いた。夢を見ながら眠っていた文次は、はっと目が覚めて起き上がった。文次は一人きりで、梅の木の根元に寝ていたのだった。昨夜の女も侍女も、どこへ行ったかわからない。どんどん明るくなる空に、烏が群れて鳴く声が聞こえた。月は西の空に落ち、宴の余韻はまだ文次の身に残っていた。

その昔、中国の崔護(さいご)という人は、ある門内に桃の花が咲き誇っているのを見た。女が二人寄ってきた。三人はそろって酒を飲み、歌をうたった。「来春もこの場所で会いましょう」と、崔護は女と約束した。

次の年の春、そこに行って待っていたが、女はまったく姿を見せなかった。崔護は門の扉に次の詩を書きつけたという。

去年今日此門中 人面桃花相映紅
去年今日、此の門中 人面桃花、相映じて紅なり
人面不知何処去 桃花仍旧笑春風
人面は知らず、何処に去る 桃花は旧により春風に笑む

崔護の話は中国の例であるが、文次が体験したのはまさにこの国での出来事である。

翌年のことを約束しようにも、相手が人間ならば巡り会うこともできようが、わたしの場合は無理だ

文次はこう考えた。

あれは疑いなく、庭の梅の花の精霊だった。わたしの袂に残る移り香は、この寺の梅の花の香りと寸分違わない。何とも不思議な印ではないか

このようなことがあった後、文次は陣屋に戻った。しかし、やはり女の面影が忘れられず、夕暮れになると何となく恋しくなり、涙が止まらなくなるのであった。

梅の花匂ふ袂のいかなれば 夕暮れごとに春雨の降る
あの人の香りが残る袖は、毎夜わたしの涙で濡れている

文次はこう歌に詠んだが、そのうち何もかも無用な存在に思えてきた。

もうこの世に住んでいる甲斐などあるものか。あの女への慕情が募り、薪をどんどん積まれて苦しむ柴舟の嘆きをつづけるよりは、いっそのこと死んでしまいたい

その翌日、文次は戦場で討死した。

『江戸怪談集 伽婢子・狗張子』浅井了意/作