素堂老漢

小弟子 小堀 泰巖

素堂老漢近影

素堂老漢

京都建仁寺・鎌倉建長寺東西両古刹の管長並びに僧堂師家でありました湊葆州老大師 素堂老漢 平成十八年七月二十四日午前六時十五分遷化なさいました。弟子達に囲まれ、自然に還るがごとく安らかな御遷化でございました。同月十四日の九十四歳の誕生日には、山内の若手和尚達に逢われ、また午後には方来の客のお祝いを車いすに掛けて元気に受けられ、嬉しそうでございました。

その時、ご自分で名前を付けられた三歳の男の子をご覧になる睦ましくやさしい、まなざしが今も脳裏に残っております。

本師は明治四十五年徳島市の旧家、湊勝治氏の四男としてご出生。幼少より神童との誉れ高く、両親のあつい慈愛に育まれ、病気がちだった「恵人(よしひと)少年」も、すくすくとご成長。長じて高知高校に入学、このときに雪蹊寺の山本玄峰老師に邂逅され、後の出家の大きな要因になりました。東京大学印度哲学科を卒業、昭和十三年、二十六歳にして両親のゆるしを得て、神戸徳光院土岐湖山老師を師として得度受具され「素堂」とされます。

昭和十七年、建仁僧堂に掛塔され頴川老師古渡老漢の足下に在って参禅辨道。しかし、当時の戦況憂うべき事態であり、師も兵役応召。その後帰山、只一人で四大不調の古渡老師をご看病、二十年九月九日、古渡老師御遷化。終戦後は益州老師金剛老漢に随時しその辛辣なる鉗鎚を受け、喝雷棒雨に屈せず、脇席に着けず、辛酸工夫、ついに不傳の傳を我がものにされます。

昭和三十年午串本無量寺に住山。檀信徒から「串本天皇」と評されるほどに闊達白在の隨處説法をされ串本に無くてはならぬ人となりました。師の生前無量寺和尚が「五十年たった今でも日に一度は老師の話題が出ますよ。」と申されておりました。

再三の拝請に屈して建長寺派川口長徳寺に住山。三十九年推されて建長寺派管長並びに僧堂師家に就任。これより建長寺における十八年間、老漢の道声ますます高く、四来雲衲輻輳して法令さかんに行われ、衆、堂に満ちておりました。又、一派を管掌して祖域の興隆をはかり、今の建長寺の礎を築かれました。

建長寺退山の日

建長寺退山の日

五十五年本師金剛老漢の願い「師命尊し」と修行の故地、建仁僧堂に移幢。茲でも師家として雲衲を説得されながら、年老いた金剛老漢に何かと心遣いをされる姿は雲納とって活きた摂化で御座いました。父子唱和と申しましようか師弟の絆の有り難さを感じました。その師匠が平成元年遷化され、その年、八代管長に就任されます。

師 平成四年 傘壽を迎えられた八月鹿児島で脳梗塞に罹病。直ぐ、鹿児島中央病院に入院され、医師の手厚い手当を受けられましたが、右手足と言葉が御不自由になられました。それでも並々ならぬ努力をされ、杖をついて歩行ができ、言葉もゆっくりと人と話ができるまでに回復されました。八十八歳の時にはリハビリをかねて色紙に「和」の一字を随分としたためられました。

九十歳を過ぎた頃より体力の衰えがみえ、食事も摂りにくくなり点滴の生活にならました。しかし、朝の七時から夜九時までほとんど会下達から贈られた車椅子に掛けておられましたが、体の線が崩れることもなく、時には無意識に坐を組んでおられました。昼間は人と会ったり食事をしたり時には金剛老漢の墓参に出かけたりして最後まで曠然自適の生活でございました。

思えば鹿児島で罹病されて以来、実に十四年の長きに亘る御不自由な生活でございました。これより化儀を他界に遷して、帰家穏坐底の安楽ならんことを。

小納、鎌倉の素堂老漢の会下に入って以来この方、長さに亘り本師の慈悲心の喝雷棒雨を被ってまいりました。ある時は苦しみ、ある時は喜び、ある時は肯い、ある時は肯わざる事あり。今、思いをはせる時、あまたの事が脳裏をかすめてまいります。全てこれ本師の慈悲善行であった事に気付き今更ながら身の愚かさに嘆いております。

愚衲 万分の一も慈恩に報いる事のできぬ我が身、慚愧に堪えません。

謹白


尚、葆州老大師は一生「素堂」の名を通され、「素堂」を室号兼、諱(いみな)と見なし「素堂老漢」と致しました。