グッドバイの和尚さん

禅居庵住職 上松正明

恐れながら子供の私が、湊素堂老師につけたあだ名である。

建仁寺山内禅居庵に昭和二十三年、男三人の長男として生まれた私は小学三年生の夏には母親を亡くした。二年生、幼稚園と下に続く男三兄弟を育てる師(父親〉は大変であったろう。

昭和十七年、建仁寺専門道場に掛塔された素堂老師は竹田頴川老師に就かれ参禅をされるが時は第二次世界大戦のさ中、間もなく徴兵で満州に配属され任地に赴かれたとお聞きする。

その後、師の病気看護のため特に除隊を許され建仁寺に帰山されるが、終戦の年の九月、頴川老師は疎開先の修学院近くの寺で遷化をされる。こうして再び素堂老師は、頴川老師の後を嗣がれた竹田益州老師の下、建仁寺の道場にお入りになることになる。

素堂老師は多くの方がご存知のように、子供がお好きであった。対して、知恵のついた大人はお好きでなかった。

建仁寺の南に松原通という商店街があり、鴨川に架かる橋を松原橋と言い義経と弁慶の名場面、「五条の橋」これである。商店街には、新聞屋、和菓子屋、文房具屋、煙草屋、荒物屋などがあり、腕白の男の子や泣き虫の女の子がいた。

僧堂では、日々の厳しい修行の区切りとして把針灸治の日があり、文字通り衣類の繕いやお灸で体を癒す日になるが、素堂老師の楽しみはこんな子供たちとの交わりであられた。

手にはいつも子供が喜びそうな甘いものが握られていて、いつしか「あめ玉の和尚さん」と私たちは呼ぶようになったが、あめ玉の力を借りなくても老師は子供の心を難なく掴んでおられた。今でこそ、子供の目線に立ってなどと言うが、その時の老師は子供に成りきっておられたのだ。一頻り遊んだ後はいつも、「グッドバイ」を残して道場にさーとお帰りになった。

山内にも子供たちは数人いたが、中でも私たち兄弟は、母親の無い子として老師は心を痛められたのだろう。大変に可愛がって頂いた。

「グッドバイのおっさんアメ玉おいしかったよ。サンキュウ グッドバイ。」

書塾を開いていた師〈父〉の勧めか、ある日私は僧堂の玄関に拙い礼状を届けたらしい。老師はそれを早速に表装され、大切に保管されていたことを後になってお聞きした。

やがて雲水生活を終え和歌山県串本のお寺に住職された老師のもとへ、師に連れられてお尋ねした。子供三人、老師にお会いしたく父親にねだったのだろう。玄関先に大きな蘇鉄が数本あったお寺では雲水時代と少しも変わらぬグッドバイの和尚さんが居られた記憶が今も鮮やかにある。もちろん机の上にはお菓子がいっばい盛られていた。

その後、鎌倉建長寺にお入りになった素堂老師は縁あって再び建仁寺の僧堂に師家としてお帰りになり、間もなく管長にも就任されることになる。

昭和五十五年、お帰りになった老師に呼ばれた私は、三十数午前の子供たちを再び集めるお役を頂いた。懐かしい思いを昨日のことのように語られる老師のお姿が私の心を強く動かしていた。

さっそく、僧堂近くの料理旅館に集まった昔の子供たちは十二名であった。三十代から四十歳になろうという子供たちは大いに昔話に時を忘れ、次回は家族を連れてということになった。そして翌年は同伴者や子供づれで三十人名になっていた。

回を重ねると、老師のお心はやはり昔の子供から今の子供へと移られ、会の趣旨は今のこどもたちの為へと変更された。こうして第三回のこども会は四月、僧堂の本堂や縁側で雲水さんたちも巻き込んで「春の縁日」が開かれることになった。出席者は大人四十名子供と幼児四十一名。総勢八十一名で大阪わいであった。こうして毎年子供たちの春休みに合せ、素堂老師主催の「子ども会」は、以後第十回まで続くことになる。

春休みが近づくと、「まーちゃん、今年は何をするんか。」と、近くの建築の仕事をしている宮野君と二人が老師の部屋に呼ばれる。あの老師の子供のような笑顔に押されその内容や規模はどんどん膨らんだ。そして最終回では五千トンの豪華客船「サウンズ・オブ・セト」を貸切って、老師を船長に瀬戸内海を親子二百名で航海をすることにまでなった。もちろん船の費用は老師から子供たちへのプレゼントである。そして翌年、私たちを呼ばれた老師は「まーちゃん、こども会もちょうど十回を数えた。もうえーか。」と少し寂しげなお顔で仰った。そこには色々のお気遣いがあったのだろう。

建長寺、建仁寺の僧堂と、素堂老師は室内では多くの雲水をその心でお育てになった。その雲水は各地に戻って住職となる。そして室外では多くの子どもたちの心を育てられ、その心はその家庭でまた、その子に伝えられているだろう。

「素堂老師、老師の子がいっぱい真っ直ぐに育っていますよ。本当にお疲れさまでした。」

九拜