鎌倉十八年

建長寺派宗務総長 高井正俊

雲水と共に在った素堂老師

七月二十四日の朝七時三十分、建仁寺小堀宗運管長から電話が入った。

「素堂老師が今朝六時十五分にお亡くなりになりました。」と。

建長寺は折りしも、半制大接心中、朝の提唱後の茶礼の折、建長寺の吉田管長いわく「今日は開山様の半斎了って丁度六時すぎかいさんどう開山堂を出る時、ふっと胸を通り過ぎるものがあったんじゃ。」と。湊素堂老師は建長寺の開山様、大覚禅師蘭渓道隆和尚様の祥月命日の日に九十四歳の天寿を全うされたことになる。なんと不思議な建長寺との因縁だろう。

素堂老師が串本の無量寺から昭和三十六年建長寺に御入山いただき、昭和五十五年に退山して、建仁寺に移られる間、実に十八年。

私は素堂老師が建長寺に来られて十年目、昭和四十五年に僧堂に掛塔入門をした。暫暇退山するまで、六年弱、素堂門下の雲水として時を過ごした。正直いって僧堂の老師の名前も、僧堂が天下に三十四もあることなど、全く知らず、親爺のあとを継ぐために、僧堂に行ってこようという、実に無願心な資格取りの雲水であった。僧堂入門時には、有名な大船常楽寺の御子息雪文英師がおられ、同日入門、私が十五分前に「頼みましょう」をかけた為、新到頭になってしまった。

昭和四十五年は、ベビーブーム世代とあって、我が同夏は十七人。僧堂にいる先輩は堂内四人、常住七人。

庭詰旦過詰が終って、隠寮相見、素堂老師との始めての対面、私と文英師はそろって、老師の前で相見の三拝をした。その時、私は「なんでこんな人の前で、こんなことをしなくてはいけないのだろうか」という程、修行底のことに無知であり、無関心であった。正直にいうと素堂老師に対する関心はまさに零であった。

初めての独参にいくと、老師は「前に坐ったことがあるか。」と丁寧に訪ねてくれたが、私は、「僧堂に来るために坐禅の練習を少ししただけです。」と。老師は何かがっかりしたような様子であった。

それからの毎日は、起きてから寝るまで、何がなんだか解らないままに高単さんの言われるままに、右往左往で一日が終わり、只々疲れて眠り、又、起きて、牛馬の如く働き、足の痛い坐禅の連続、これが正直な毎日。独参にいけば、「どうだよく坐れたか」の問いにムニャムニャ、実に情のない二十五歳の雲水だった。

新到の一年が終わり、いくらか僧堂の様子も解ってきた。同夏の仲間は十七人、その間では実に共に辛酸をなめ合うことで結束も強く、きびしい中にも心通ずるものがあった。そして、六十歳になって今から思うと、この僧堂が、いかに尋常ではなかったということも。

先ず、解りやすくいうと休息がない。一日の中でも、半年の中でも、一年の中でも。一日の中で自分の持てる休息の時間は斎座後の作務出頭の前、三十分位、薬石後の二十分位。あとは夜坐のあとの睡眠だけ。接心前の把針灸治の一日休息が雨安居で三日、雪安居で四日。年間では解制二夜三弁事〈二泊三日の休息)。つまり、一年を通して十日。平均しても一ヶ月に一日も休みがないことになる。

俗にいう制間暫暇といって年二回の休息がある普通の僧堂ではこの休息に鋭気を養って、又、厳しい僧堂の修行に打ち込むというリズムになっている。

高単さんいわく「雲水と盆栽はいじめればいじめるほどいい。」と老師はいっていると。これは、僧堂内では先輩にも後輩にも同じ条件なので、人によって差別があるというものではなく、平等だから、これは僧堂だから、修行の道場だから、こういうものなのだと思っていた。

と、いうことで、素堂老師のおられた建長僧堂では一年中修行そのものの毎日であった。

正直いって、私共が昭和四十五年に十七人、入門したことは、建長僧堂にとって画期的なことであった。従来の建長寺の僧堂は人少、雲水の数が少なく、僧堂の運営も内々ですませていたような雰囲気であった。但し、作務については老師の僧堂をよくしようという思いもあったのだろう「畑の開墾」「禅堂後門前拡張ガケ切りくずし」という大作務はすでになされていた。十七人の入門は僧堂全体を僧堂らしく成り立たせざるを得ないことになり、まさに修行道場に変身したということだろう。私たちの次の年にも更に十四人の入門を得、建長僧堂はすさまじい勢いで僧堂らしくなっていった。それ以後、僧堂の雲水は常に三十人を越え、ある時は四十人を越えていた。これが、今書いたように素堂老師の僧堂をよくしていこうという思いを役位さんが受け止め、僧堂全体が作務に、坐禅に取り組み、修行ということで雲水をぎゅうぎゅう言わせていたのだから、まあ、大変なものだった。雲水も、その期待に答えて、あらゆるものにエネルギッシュに立ち向かっていた。

素堂老師も建長寺入山十年を過ぎ、入山以来、本山や僧堂のため、種々心にとめていたものがあった,,そこへ、若々しい雲水で僧堂がふくれ上った。そのパワーが老師の何かに火をつけたのかもしれない。

作務労働から語り始めると、園頭への道路整備、開山堂裏の百段の石段作り、境内の周囲の山林整備、次から次へとよく大仕事があるかという程の大作務の連続。当時の本山には経済力もなかったので、雲水の労力に頼るのが一番手っ取り早かったのだろう、僧堂の守備エリアは本山全体、ある時には塔頭にまで広がっていった。建長僧堂は作務叢林ということで名を知らしめていった。

こうした中で、忘れられないものが二つある。

「令山賞」と「大島経行」である。「れいざんしょう」とは何か。御存知のように、僧堂では雨安居、雪安居といって、一年が前期・後期と分かれ、役配といって人間の配置も、それで大きく交代をする。その役の中で、殿司寮というお経の役がある。この殿司寮は、朝のおつとめを担当することから、僧堂の朝の起床をあずかる役である。払暁から深夜十二時過ぎまで、活動し続ける、ふとんに入ると考える閑なく、深い睡眠に落ちてゆく、これが最大の喜びとなる。この深い眠りを覚ますのが殿司寮の役目。しかもその役とて、皆と一緒に動いているのだから自分で起きるのも大変なこと。

でも、起きて皆を起こし、一日を始めなければならない。この仕事を、素堂老師が僧堂に入山されて十年余、いまだかつて、寝坊しなかった者はない。ところが半年間寝坊することなく、その役目を果たした雲水が出現した。伊豆稲取済廣寺の住職になっている長谷川令山師であった。素堂老師は、その功績を讃えて「令山賞」という賞を作った。賞品は老師の墨蹟(半折)であった。その後、「令山賞」をもらった雲水はなかなか現れない。それだけ、この賞の威力は大きなもので、朝寝坊をする回数が激減し、そのおかげで僧堂の規矩はますますしまっていった。

次に「大島経行」についてである。僧堂の生活三年目に入って、建長寺の僧堂が労働で有名になり、「湊土建」と周辺の人から言われ、門前のバアさんからは「雲水さんはそんなに働いて、いったい給料はいくらもらっているの。」といわれ、まさか夕食にコロッケ二つか卵一個ともいえず苦笑をしたころ。「慰霊塔横護美穴作務」が続いた。大きな(五m×四m)箱穴を作って境内の落ち葉やくずを堆肥にしようということでその穴作りをしていた頃、夜遅くなって、車のライトをつけて、切りのいい処までゃってしまおうと皆で元気よく頑張っていた処へ老師が現れ、役位の関さんに、その様子を見ていた老師がこう言った。「この大作務が終ったら、皆んなをどこかに連れてってゃろう」と。老師が雲水の慰安のため、外に連れ出してゃろうということだった。その結果実現したのが「大島経行」という遠足であった。これは本当の処、実に嬉しかった。三十名以上の雲水がほとんど一年中、修行道場に閉じ込められた状態で、集団で作務に坐禅に托鉢にと打ち込んでいるのは、外から見ると実にきびしい修行をよくやっていることになるのだが、中にいるものにとっては、時には、うっとおしく、息が詰まることになる。老師も多分、そのことに気がついたのだろう。そこでグッドアイデアとばかりにこの雲水大遠足が実現した。老師が建長寺派機関紙「和光」に「南の島に雪が降る」を書かれた通りである。この経行はその後、「東北経行」「奥多庫経行」「信州経行」「京都経行」と続いていく。但し、だんだん当初の新鮮さは無くなっていった。

私が僧堂五年目、知客寮をしていた時にも忘れられないことがあった。時に坐禅堂〈大徹堂〉の屋根が老朽化して、大徹堂屋根作務が行われ、大徹堂の屋根瓦の取り替え、補修工事に取り掛かっていた。この作務は雨が降っては困るということで天候を見ながら十日間ぶっ続けで行われ、雲水の疲れもたまり、しかも遠鉢といって、地方へ一週間の托鉢行も迫っていた。それらのことで、私は「午前屋根作務、午後四九日休息、遠鉢支度」という告報を作って、それを実行した。

そのことが、老師には「カチン」ときたらしく、遠鉢にいく前日の晩は総茶礼といって、全員が正装し、同じ茶を飲んで、老師の訓示を受けることがならわしになっていた。遠鉢茶礼を老師にお願いに行くと、老師いわく「わしは茶礼には出ん。」という。これには参った。いままで老師が僧堂の正式な茶礼を欠席したことがなかったのだから。役位の運さんや然さん英さんに相談、老師がいなくても、しかたないから皆で茶礼をやろうとそのまま茶礼をした。私も役位になりたてで、がむしゃらに職務を全うしていたのだが、一度もそのことを老師にいったことはないが、老師は恐らく、僧堂の主人公はわしだぞ、わしの意向に気がつかんとは、の心境であったのだろう。

素堂老師がお亡くなりになって、いろんなことを思い出してくると、次から次へ、種々雑感なことなのだが、急にたくさんのことが浮かんでくる。たったの六年間の生活なのに。

建長僧堂にとっての素堂老師とはいったい、どういう存在だったのだろうか。寒松室宮田東眠老師亡きあとの建長僧堂へ四十八歳で入山された時、老師はこの僧堂で何をしようとしていたのだろう。

これも今から思うと、ということになってしまうが、「湊素堂老師は雲水と共にあった」ことに尽きるだろう。朝は雲水より早く起きて寝忘れを見張り、独参でまた見張り、作務中にも杖をついて現れ、まあ、いつも雲水の側にいてくれて、実はうっとおしかった。ありがたいことだが雲水にとっては十時や三時の茶礼にも老師が現れると、これはもう、休息ではなくなる。それだけ雲水と共にあって、自分を含めて徹底的に修行三味になろうとしていたのだろう。

又、ある時から老師は雲水に渾名をつけ出した。一老子の吉行禅師は「ずる行」であり、次に一老師になった宗運禅師も「ずる運」。雲水が多すぎて、名前を覚えるのが大変だったのか、雲水の特徴をつかまえようとしていたのか、ほとんどの雲水が仇名をつけられた。又、同夏〔級〉の会にも「我楽多会」や「空転会」と勝手に得意に名をつけた。

隠寮におられて、老師の生活をするだけでなく、隠寮からおりられて、雲水の日常の中に入り、雲水と共にあろうとしていた。その方法で雲水を、禅僧を育てようとしていたのだろう。今から思うと、実に実に、有難いことであった。又、雲水だけでなく、入り込んできた雀もかわいがり、その雀が亡くなると「常住院一衆愛鳥羽児」の戒名までつけ、雀の墓を作られた。

僧堂にとってはありがたいこともあった。これは先輩から聞いたことなのだが、一夏〈半年)終ると、僧堂は老師に半年間ありがとうございました、ということで何がしかの金子を差し出したのだが、ある時、老師は「これはわしが貰っても使いようがない、これを元にして僧堂の基本金を作ってはどうか。」と提案された。これを元にして、僧堂の基本金が積み立てられていき、後々、現在に至るまで続き、僧堂復興のために、実に大きな働きをされた。

素堂老師の鎌倉におられた十八年間は、建長寺の僧堂を名実共に叢林に育て上げられたことに尽きる。禅の道を究めようとする雲水、或いは、前も後ろも解らぬ資格取りの雲水にも僧堂にいることによって、禅僧に育て上げる場にして下さった。素堂老師は建長僧堂復興の大恩人であり、各地の老師方は修行道場のモデルと模したであろうと思われる。

まさにその意味で老師は日本の戦後の禅の道場を道場たらしめた大実現者であった。この素堂老師の意力が各地の禅道場の老師方の奮起をうながしたことは問違いない。

素堂老師は禅の道を照らす輝かしい大灯であった。