瑞龍僧堂師家 清田保南
昭和五十年春、明日はいよいよ鎌倉建長寺の塔頭、長寿寺へ入寺のため京都を出立という朝、師匠と二人で妙心寺小方丈に梶浦老師を訪ねた。挨拶を済ませたらすぐに帰る積もりであった。
ところがだんだん話をしていくうちに、思いもかけぬ成り行きとなってしまった。「この話は全く承服できない。取り止めだ!」と言い出したのである。頭から湯気を出さんばかりの怒りようで、取り付く島もない。老師は建長寺へすぐさま電話を入れると、先方の管長さんに向かって罵言雑言、物凄い剣幕で怒りをぶちまけた。端からその様子を見ていた私は、これでもう終わりだと感じた。もともとこの話は私の方からお願いをして進めてきたものであったし、こんな無茶苦茶なやり方ではきっと先方も腹を立ててしまうに違いない。その上梶浦老師の頑固さはつとに有名で、一度言いだしたら決して撤回することはないことを良く知っていたからである。
この後も怒りは一向に治まる気配はなく、お説教が延々と続いた。しかし最初のうちこそ、その剣幕の物凄さに庄倒されていた私も、だんだん腹が立ってきた。自分の生き方は自分で決める。勝手にされてたまるか!私の方もむらむらと怒りが込み上げ、「待て!」と言う声を背中に浴びながらさっさっと引き上げてきてしまった。こんな無体な話があっていいものか、ついにはお坊さんの世界そのものに嫌気がさしてきてしまった。
ところが翌早朝夜も白々と明ける頃、小方丈から電話があり、老師より話があるから直ぐ出て来いと言う。しかしその時には既に私の心は決まっていて、もし昨日と同様のことならば、この際自分の考えをはっきり言ってしまって、即座に老師とは縁を切る心積もりでいた。そして全く別の人生を歩めばいいのだと考えていた。相見(しょうけん・師家に面接すること)するには気合いを入れて行くのが肝心である。相手に圧倒されては言いたいことも言えぬ。老師から目をそらさずに睨み倒してやろうという意気込みで武者震いをしながら部屋に入った。すると何と驚いたことに、老師は私の顔を見るなりニコリと微笑み、「この話は認めよう。だが一つ条件がある。鎌倉へ行ったら直ぐ建長僧堂へ掛塔して、これからは素堂老師について修行せよ。」と言うのである。私は拍子抜けしてしまったがともかく一応これで安堵した。
早速鎌倉へ出向き、ことの次第を申し上げると、素堂老師は「長寿寺入寺については承知しましたが、私に参禅するというのはお断りします。五、六年位なら私の処で一から修行し直しても良いが、あなたは既に十年以上にもなる。途中で師家が変わるのはあなたの為にならないから駄目です。」と言われた。一難去ってまた一難、これが梶浦老師の条件だったので、このままではこの話は再び潰れることになる。正直のところ頭を抱え込んでしまった。そんな私を前にして素堂老師は更に言葉を続けて「このままを梶浦老師に申し上げたらこの話は駄目になってしまう。ですからそれでは二人で嘘をつきましょう。条件通り私の所に参禅をしていることにして、あなたは正眼寺へ通参しなさい。それにしても全部嘘もいけないから一応建長僧堂へ掛塔し入門を許可されたら、その日に寺に帰ることにしたら如何でしょうか。」私のような今まで何の縁もゆかりもないものに、ここまで温情を掛けてくださった素堂老師にはただ有り難いの一語につきる。
早速妙心寺小方丈に出掛け先方は全て承知したと申し上げると老師はたいそう満足の様子であった。梶浦老師には嘘をつくことになった訳で、心の中はすっきりとはしなかったが、建長寺の老師と一緒なのだからというのが支えになった。
さて鎌倉の長寿寺へ住職してからであるが、気掛かりだった正眼寺への通参も案外と順調に行き、むしろ一回行けば次の大接心が待ちどうしい程であった。ただ日常は淡々としたもので、離れ小島に一人流されているような孤立感があった。鎌倉は決して人里離れた場所ではないが、周りにいくら人がいても、それは私とは無縁な世界であって、一人も居ないのと同様であった。それと共に参禅自体にも次第に虚しさを感じるようになっていった。
我々の修行は入門と同時に公案(こうあん)という問題を与えられ、朝晩二回老師の所へその答えを持ってゆく。所謂参禅を通じて一則一則の公案を透過し、心境を深めて行くというものであるが、これも十年十五年と続けていると、次第に答えには幾つかのパターンがあることが解ってくる。やがては新到の頃の清新さは失われ、ただ透過したというだけの、何ら意味の無いものになってしまっていた。心の中にぽかりと穴が開いて、冷たい風が吹き抜けて行くような寂寛とした感じであった。