イノシシに乗った女神 -2-

【飯田市美術博物館学芸員】 織田 顕行

摩利支天(まりしてん)の実像を求めて

日本の摩利支天信仰と清拙正澄

「日本三大摩利支天」というのがあるのをご存知だろうか。金沢の宝泉寺(ほうせんじ)、上野アメ横の徳大寺(とくだいじ)、そして京都建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)禅居庵(ぜんきょあん)である。真言宗、日蓮宗、臨済宗と宗派はまったくバラバラだが、それそれの摩利支天に独白の由緒があり、また像のかたちも異なっている。おそらく我が国の摩利支天信仰の大部分は、修験道を含む民間信仰の類とともに密教系、日蓮系、臨済系のいずれかに集約されるのではなかろうか。

なかでも臨済宗の摩利支天はもっとも少数派と思われるが、実は伊那谷とのゆかりが深い。

禅居庵を闘いた大鑑禅師清拙正澄(せいせつしようちよう・1274-1339)は、有力御家人の招きを受けて鎌倉時代末期に中国から来日した禅僧である。南禅寺や建長寺などの名利の住職を歴任し、臨済宗大鑑派の祖となった。小笠原氏や土岐氏ら地力の有力御家人たちからの信頼も厚く、信州伊那谷の名刹開善寺(かいぜんじ:飯田市上川路)の開山に迎えられた。清拙を祖とする大鑑派の優秀な法嗣(はっす)が伊那谷から数多く巣立っていることは特記に値する。

『末利支提婆華鬘経』によれば、摩利支天の像を自ら彫ったならば遠方に出掛けるときも袈裟の中に入れて肌身離さぬようにしなければならないと説く。清拙は自刻の摩利支天の像を袈裟に納めて中国から海を渡り、無事に日本にたどり着くことができたと伝える。このような緩から清拙にゆかりのある寺には鎮守として摩利支天像を祀る堂が併設された。禅居庵の摩利支天堂もそのうちのひとつであり、「まるしてんさん」と呼ばれて祇園界隈でも信仰を集め、「日本三大摩利支天」のひとつに数えられるまでになった。

清拙正澄は中世伊那谷の禅宗文化を考えるうえで欠くことのできない存在だが、我が国の摩利支天信仰の恩人でもあるのだ。

清拙正澄ゆかりの摩利支天をたずねて -京都編-

平成十七年秋、飯田市美術博物館において特別展「中世信濃の名僧―知られざる禅僧たちの営みと造形―」と題する展覧会が開催されたのをどれだけの人が覚えているだろうか。

この展覧会を企画した筆者は、展示資料借用のために全国各地の禅宗寺院を訪ねる機会を得た。主な訪問先は展覧会のキーパーソンでもある大鑑禅師清拙正澄の故地であったが、それは同時に摩利支天を訪ねる旅でもあった。

五山の最高位に君臨した京都東山の巨刹南禅寺(なんぜんじ)の塔頭寺院である聴松院(ちようしよういん)。ここは細川氏の菩提寺で五山文学の大成者希世霊彦(きせいれいげん・1401-1488)が、焼失してしまつた清拙正澄の塔所善住庵(ぜんじゅうあん)を再興してその名を聴松院と改めた塔頭で、南禅寺の塔頭ながら今なお大鑑派の法灯を伝える貴重な寺である。また江戸時代から続く湯豆腐どころでも知られている。

聴松院の山門と摩利支天堂の門とは別々になっていて、堂の前には狛犬の代わりに阿吽のイノシシが構えている。ここの摩利支天像は秘仏でありその姿を拝することは叶わないが、由緒によってそのすがたが伺える。少し細かくなるが主だった特徴を記すと、三面六臂で正面の顔は三眼で右面を猪面とし、頭上には宝塔を載き、手にはそれぞれ宝剣、無憂樹、弓矢、針と糸を執る。輪宝をあしらう火焔光背を背にし、七頭のイノシシを配した台座に坐している。

続いて紹介する禅居庵(ぜんきよあん)は、京都最古の禅寺建仁寺の塔頭で清拙正澄が最期を迎えた場所でもある。開善寺の最有力檀徒だった信濃守護小笠原貞宗(おがさわらさだむね)の京都における菩提寺でもあり、同庵に併設される摩利支天堂の裏には二人の墓所がある。

臨済宗大鑑派の拠点となった同庵の住持は、伊那谷の御家人知久氏の出身者が少なくなかった。開善寺はいまでこそ臨済宗妙心寺派に属しているが古くはこの禅居庵の末寺であり、歴代住持はことごとく禅居庵から輩出され、開善寺即禅居庵のごとき様相を呈した。

禅居庵のほうは非公開だが摩利支天堂の入り口は建仁寺の境内の外にあり誰でも参詣することができる。門をくぐるとさすがに日本三大摩利支天に数えられるだけあってたくさんのイノシシが迎えてくれる。秘仏の本尊は亥年にあたる今年十二年ぶりにご開帳されるそうである。拝見させていただいた前立本尊は先の聴松院の摩利支天と図像的にはほとんど同じであり両像の関係が密接であることは間違いない。

禅居庵、聴松院像はさらに詳しい調査が必要だが、禅居庵の摩利支天像は武神のごとく引き締まった精悍(せいかん)な顔つきで、戦いの守護神として篤く信仰されていた時代の気分が漂っておりその制作年代は中世まで遡りそうである。

南禅寺や建仁寺自体は過去に何度も拝観していても、この二つの塔頭を訪ねることはなかった。そしてここの摩利支天堂を訪ねるまで、正直なところ清拙正澄と摩利支天との関わりがそれほど大きなものだとは思えなかった。しかし本堂をしのぐ存在感を持つた摩利支天堂を目の前にしたとき、その疑念は氷解した。同時に、より大きな疑念に捉われるようになった。

摩利支天を訪ねる旅は、この時点から始まったといってもいいかもしれない。

(つづく)