イノシシに乗った女神 -3-

【飯田市美術博物館学芸員】 織田 顕行

摩利支天(まりしてん)の実像を求めて

鎌倉の摩利支天を訪ねて -禅居院-

清拙正澄は、住持を務めた建仁寺、鎌倉建長寺、博多聖福寺(しようふくじ)に「禅居庵」と名付けて自らの退去先となる塔頭を創建した。

多くの観光客でにぎわう鎌倉の名刹建長寺(けんちょうじ)の向かいにひっそりと伽藍を構える禅居院(ぜんきょいん)。「西禅居」の建仁寺禅居庵に対し鎌倉のこちらは「東禅居」とよばれたが、明治以来「禅居院」と名乗り、寺域も創建地である建長寺境内から移転している。度重なる戦渦によって一時は廃庵となってしまったが、大正時代に復興して現在は建長寺の向かいに寺域を構えている。

ここの摩利支天像は、三面六臂で正面および右面は菩薩相で三眼、左面を金猪とし、手にはそれぞれ剣、天扇、金剛鈴、金剛杵、弓矢を執る。そして三頭の金猪を配した。二重蓮華歴に坐している。比較的経軌に忠実なすがたであるが、左面を猪面とする点、台座のイノシシの数が三頭という点は他像との図像的な大きな違いであり、実見した像の中では最も大きく、ふくよかな女神像の雰囲気を醸し出している。制作年代は中世まで遡るものではないが、後述する元禄五年という年号からそれほど遠からぬものであろうか。

興味深いのは、台座の内部にもう一体、10センチにも満たない小さな摩利支天像が納められていたことである。いまは厨子に納められており、三面六臂だが顔はすべて正面を向いており一頭のイノシシの上に半跏している。なお厨子の底には元禄五年(1692)の朱書銘があるが、清拙自刻の摩利支天像とはこのようなものであったかと思わせるような素朴な小像である。

そして伊那谷へ -開善寺-

白山社里宮の摩利支天

白山社里宮の摩利支天

清拙正澄を開山とする開善寺にも、古くから摩利支天像が鎮守として祀られていたことは史料にも記されている。しかし秘仏でもありお寺でも厨子越しにしかお参りすることが無かったくらいなので、一昨年前の展覧会で出品されるまで実際にその姿を拝した人は皆無に等しかったであろう。ほとんど忘れ去られていたこの像を見つけたときにはさすがに興奮した。この像の存在により、それそれの清拙正澄の故地同士がさらに固く結ばれるとともに、中世の開善寺が大鑑派の地方における拠点として重視され禅宗文化の最前線にあったという事実が、いっそう強力に裏付けられるのである。

その像容は禅居庵像と同様に小ぶりで、像高約13センチで台座と光背を含んでも26センチ程である。三面六臂で七頭のイノシシの台座上に坐す点、三面のうち右面を猪面とする点は禅居庵や聴松院像に共通し、一見すると図像的には禅居庵像とそっくりなのだが頭に宝塔を載せない点などは異なっている。殆ど人目に触れることなく厨子に人っていたためか保存状態は良好で、小像ではあるが丁寧な彫技で好もしい作である。きらびやかな彩色で。一見近世の作にみえるが清拙の摩利支天信仰などを考慮すれば開善寺が禅居庵の末寺であった14-16世紀頃に制作されたものと思しい。

清拙正澄にゆかりある摩利支天の像は、細部のかたちはそれぞれ異なっているもののいずれも異国風の衣服を身に着けた三面六臂の坐像で複数の金猪を配する台座上に座すという点で共通している。したがってこれを臨済宗大鑑派の摩利支天像のベーシックなかたちと捉えて差し支えなかろう。

このようなタイプの摩利支天像を<大鑑派系の摩利支天像>とでも仮に命名できるといいのだが、清拙正澄ゆかりの寺院だけに伝わるかたちとは言いきれない。

同じかたちの像は意外にも身近なところにあった。風越山麓の白山社里宮に現存する摩利支天像である。

白山社の別当寺であった白山寺は天台宗に属し、明治期の神仏分離令にともない廃寺となったか仏像の類は白山社に遺されている。清拙正澄とのゆかりは全く見いたせないが、摩利支天像のすかたは持物を失うものの図像的特徴は禅居庵像と同じとみてよさそうである。このことからも、本稿で取り上げてきた像と同型の摩利支天像はほかにも各地に現存しているものと思われる。秘仏が多くなかなか実態を捉えがたい摩利支天だか、同じタイプの佳品がこの伊那谷に。二例も現存するというのは貴重である。

残された課題

いったい、〈大鑑派系の摩利支天像〉と仮称するイメージ(偶像)は、とこから発生しているのたろうか。

このことについて言及するには、像の制作年代、制作した仏師の系譜といった美術史上の問題、あるいは中国風ともいえる着衣形式なと風俗史上の問題などについても目を配らなければならない。しかしこの点について実は本稿ではほとんと言及していない。というのも、清拙正澄の故地を訪ねて調べた摩利支天像は聞善寺像を除いては事前調査の域を出ておらず、それも摩利支天を信仰するおそらくもっとも小さい集団のひとつともいえる臨済宗大鑑派の例を取り上げたに過ぎないからである。

また、摩利支天のイメージが古代インドから中国や朝鮮半島などを経て日本に定着するまでにどのような変化があったのか、このプロセスもまだよく分かっていない。

さらに気になるのは、清拙正澄の記録の中にはほとんど摩利支天の名か出てこないことである。摩利支天は人に知られてはならない守護神であり、もしかすると清拙は摩利支天のことをあまり他言しなかったのかもしれない。したがって清拙正澄と摩利支天との結びつきをはっきりかたちにしたのはむしろ彼の弟子や庇護者たちであったとみるべきなのかもしれない。だとすればいったいなぜ彼らかこのようなかたちの摩利支天像を選び、清拙正澄の故地に安置したのだろうか。

これらすべてが今後に残された課題である。瑣末(さまつ)な問題のように思われるかもしれないが、意外とこうした細部のなかに大きな問題を解決する糸口が隠されていたりするのである。

以上、今年の主役であるイノシシにゆかりある摩利支天について思いつくまま私見を述べてきた。

このレポートでは摩利支天のかたちに関する問題を取り上げたため像容のティスクリフション(記述)にある程度頁を割かざるをえなかった。しかし、イメージ(偶像)から発せられるメッセージは、時に言葉よりも雄弁である。したがって言葉として遺されなかった先人のメッセージをすくい取るには、遺されたイメージを丹念に読み解くほかない。

とはいえ我が国ではその功徳の性格から摩利支天は秘仏であることが多く、その実像に迫ることが困難を極める作業であることには変わりない。摩利支天が何人たりとも知ること能わざる存在であると経軌に説かれるのを見るにつけ、それも宜なるかなと思ったりもするのたが、その一方で解明の糸口もまた少しずつ見えてきたように思う。次の亥年までに、新たに知見を得ることはできるだろうか。

摩利支天をめぐる旅は当分終わりそうにない。     

(おわり)