普通「花便り」というと「こんな花が咲いていますよ」というふうな便りですが、今回は「花による便り」です。昨年のように花を贈っていただきました。ありがとうございます>某氏
暮れに届いていましたが、なかなか時間がとれず今頃になってしまいました。花の少ないこの季節でのあでやかな一鉢になりました。
明けましておめでとうございます。
お寺での大般若と新年会を済ませ、殆ど間無く組合(隣組)の新年会。ここ幾年かは近くにある河川敷のマレットゴルフ場の橋の下が会場でした。家内曰く今年は公民館で行うと。橋の下での新年会は川沿いの風が冷たく、公民館であれば火も入っていて暖かいではないかと期待しながら出かけてみると。
公民館の敷地内ではあっても、屋外でした。帰ってみると冷え切った手先が暖かい部屋では痛くなったほどです。
年を経た人たちはここ30年ほど同じメンバなのですが、皆さん白髪が目立って来ています。白髪がない頃は元気があり、外で会場を借り飲食したものなのですが、時間が経つほどの簡素化し寒空の元での新年会になったわけです。お酒一杯、今年もよろしくで散会。
一週間ほど前からランの調子が悪くなることがあった。ランとは言っても花ではなくネットワークの方である。溝掃除をしていたら電話があった。先輩に当たる人からである。その先輩が友人の所へ行っているらしい。その友人にランの不調のことをはなすと
「そりゃルーターから始めて、一個一個確認しなきゃ」……なるほどそうには違いないが、廊下といえども部屋の外は寒いし。
お昼に上がって確認してみるといよいよダメになり、一つ一つ確認するとどうもルータを出て一番目のスイッチングハブが死んでいるっぽい。これはここでは最初に購入したハブだ。良く動いていてくれたものだ。新しいものを購入し付け替えたらなんと言うこともなく復活。
10 年以上動いていたから天命を全うしたことになるのか。これから購入した順に色々な機器がダメになっていくのだろうか。自分自身も野良としては耐用年数を遙かに過ぎているはずなので、何時不調になっても不思議はない。世も末だ。
妙なシンクロニシティでその友人の知人でもある方から本が届いた。「喜多村 琢」という方の「我楽多録」(がらくたろく)。著者を知らないではないか。と一瞬訝しんだが本名をもじった筆名だった。懐かしい書がいっぱい掲載された楽しい著書だった。著者曰く「仕事もせず生きてきたので、ここらで表札の一つも作ってみようかと」
そうか、筆名で活動されていたのか。検索してみると公式サイトをお持ちで、ブログまで書いていられた。知り合った頃は「僕は本業は絵です」との事だった。もちろん字もすばらしいものであったのだが、サイトのタイトルにあるような「書家でありアーティストの」などとは自分からは決しておっしゃらないはずだ。
喜多村さんは自分でサイトを立ち上げたりブログを作ったりは絶対にできない。建築学科を卒業した友人やら管理人達をさんざん馬鹿にしていただいた芸術ボケのおじさんだったのだ。「原稿さえ書いていただければ、後はこちらで……」で勧められその揚げ句のタイトルだと信じたい。
しかし喜多村さんがサイトを持ったりブログを書いたりは 世も末だ。
究極のところ「人間はひとりぼっち」という著者の「悪戦苦闘」の日々の一部を切り取って『我楽多録』と名付けた画文集。人生の機微に巧みに触れる言葉がごく平易な語り口で綴られており、画風もユニークで楽しい味わいの深い魅力的な作品である。作画・構図、文章・文字、配色、いずれも巧みに描かれており、なおかつ親しみやすい。ひと言でいうとクオリティーの高い大人の絵本。
ということで、皆様是非お買い求めのほどお願い申し上げます。
あんたら、禅寺(ぜんでら)の老僧の生活ってのが判るか?
例えばこの臘八の頃にはな、あぁ今頃若い雲水達が一生懸命坐ってるな、と囲炉裏の灰に線香の一本も差し、自分もしばし坐禅するようなもんじゃ
と某老大師は臘八の提唱で仰いました。まだ私は老僧というほどではありませんが、弟子が臘八の最終日を迎えているのだとの感慨はあります。が老僧ならざる私は、一炷の坐禅どころか先日吹いた大風による杉枯れ葉が山のように落ちているのを片付けるのにフウフウ言っている体たらくです。
囲炉裏のその付近だけが仄明るく、一本の線香の香りと倶にある坐禅姿は墨絵にもなりそうな詩的な雰囲気があります。
実際にやっていることは、大きなゴミ袋と熊手と箕とあまり詩的でない散文的なことで、幾枚か残ったしつこい葉など残しておけば絵になるものをたたき落として顰蹙を買い、ゴミ袋をガシガシと足で踏みつけてなるべく沢山入るようにしたり。入れすぎて重くなったのを悔いてみたり。
あぁ、上記の老僧のような生活が本当に迎えられるのでしょうか。
というわけで、本日は臘八最終日。
お釈迦さまは12月8日、明けの明星を見てお悟りを開かれたそうです。今日7日に「あかつき」が金星に到達したそうですが、お釈迦さまに縁のある今日という日にしたのは、成道會に合うようになのでしょうか。
「今日も朝から掃き掃除」のつもりだったのですが、今朝は氷点下まで下がり寒い朝となってしまいました。そのせいで掃き出すのが遅くなってしまいました。
寒いから初動が遅くなってではなく、霜がなかなか融けずに葉がくっつおてしまっていて上手く掃けないのです。霜が降りると、今まだ落ちていなかった葉もはらはらと落ちてきます。早く落ちきってしまうとありがたいのですが。
日中は暖かく高い空に冬の雲がかかっていました。で、以前取り上げた「冬の雲」の主題歌中の、「Rosmarienbaum」=「満天香」、正体不明だったのですが「Rosmarienbaum」を「Rosmarien baum」と切れば「ローズマリーの木」となります。ローズマリーは確かに「常緑性低木」ですので「緑の枝に 花は散りぬ」もうなずけます。花は紫蘇科らしく紫色ものが多く、決して紅ではありません。また低木ですので「満天」は誇大表示ではないかと。
それではローズマリーを満天香と称することがあったのかと方々をのぞいてみると
【意味】 マンネンロウとは、ローズマリーの和名。【マンネンロウの語源・由来】
マンネンロウは香が強いところから、「常に香がする」という意味で「マンネンコウ(万年香)」と呼ばれていた。
「マンネンコウ」が「マンネンロウ」に変化した理由は、誤字によるとも言われるが、「コウ(香)」を「ロウ」と書き誤ったものが引き継がれるとは考え難い。
また、「ローズマリー」を「マリーローズ(マリアのバラ)」と解し、「マリーローズ」の略と「マンネンコウ」が混ざり、「マンネンロウ」になったとする説もあるが、そのような変化をするか疑問である。
マンネンロウの漢字表記には「万年蝋」や「万年朗」があり、「蝋」は当て字で「朗」に意味があったとすれば、常緑低木で常に青々としているところから、永遠の若い青年に喩えた「万年朗(マンネンロウ)」の意味と考えられる。
現在の漢字表記「迷迭香」は和名と関係なく、中国での呼び名である。
古くは「迷迭香」と書いて「メイテツコウ」と呼んだが、現在では生薬名として以外にあまり使われない。
想像をたくましくすれば、「万年香」→「満天香」→「満天紅」となりローズマリーからは遠く離れてしまったのでしょうか。baum は確かに「木」ですが私には「低木」のイメージはありません。少しは背の高い木をイメージしても無理ないように思います。門馬直衛はローズマリーそのものを見ることなく訳詞したような気がしてなりません。
以上のことから、
「Rosmarienbaum」=「ローズマリー」で「Rosmarienbaum」=「満天紅」はどちらかといえば誤訳と判定しても良いのではないかと思います。
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2008/4/22 〜 |