県教委は8日、開善寺(飯田市)の「木造清拙正澄坐像(もくぞうせいせつしょうちょうざぞう)」=写真=と松本市の「桜ケ丘古墳出土品」(計64点)の2件を県宝に指定するよう、県文化財保護審議会に諮問することを決めた。
木造清拙正澄坐像は14世紀後半の南北朝時代の作とされ、ヒノキの寄せ木造りで、表面は布を張った上に胡粉(ごふん)を塗り、彩色を施してある。同時代の彫像として優れた技法の作品という。
というわけで、開山様の木像が「県宝」に指定されるかもしれません。そのこと自体は、飯田市が推薦する時に了解を求められていたので、そう意外ではなかったのですが。信毎を購読していないのでこのニュースになったことは知りませんでした。「新聞のニュースでご存じのように…」という電話があり、「申し訳ありません。何新聞でしょう?」。
よく判りませんが、長野県民たるものは概ね「信毎」を購読すべきなのでしょうか?
ところで今判ったことなのですが、ATOK の辞書には「県宝」は登録されていませんでした。一般的な言葉ではないのだろうかと、 google などで調べて調べてみると、どうも長野県特有の言葉らしいです。他地方では、「県指定の重要文化財」とか「市指定の文化財」の言い回しが使われていて、そういえばここにある山門なども「国指定の重要文化財」などと言われたことがあります。長野県内では「重要文化財」というのは全て「国指定」ですので、ずいぶん丁寧な言い方と思ったのですが、長野県外では「重要文化財」だけでは「国指定」なのか県・市・町・村なのかは判らないわけですね。
明治からこちら、とりわけラジオ・テレビが普及してから、方言が使われなくなり滅びようとしている、などとの「説」を拝聴することがありますが、長野県においては「県宝」という単語が、仮に昔から在る言葉としても特異的に使われています。新しい方言といっても良いのかもしれません。
「方言は滅びぬ、何度でもよみがえるさ、方言の力こそ人類のアイデンティティを為すからだ!!」 by 偽ムスカ
でしょうか。
物忘れは突然訪れるものではないでしょう。何かを記憶したつもりでも、時間と共に少しずつ忘れていくものの様です。管理人も年齢相応にそのスピードは加速しているようです。もちろん均等に忘れていくわけではなく、中には忘れようとして忘れられないものもあるわけです。
以前お世話になっていた ISP で、wiki を使っていたことがありました。ISP 側で PHP をバージョンアップした時に動かなくなってしまい、恐ろしいことにデータも共に無くなってしまいました。これなど「忘れようとして忘れられないこと」であったわけです。
ところで「飯田娘」というご当地ソングがあります。以前には時々は耳にしていたのですがこの頃は聞いたことがありません。
歌詞などはうろ覚えだったので調べてアップしたことがあります。上記のトラブルでページが無くなってしまい、調べた歌詞も無くなったと思っていました。健忘症を防止するのは難しいのですが、その被害を少なくするため普段色々なことを一つのファイルに保存しています。他のものを探している時に、歌詞を再発見し歌詞の部分を更新しました。
電子テキストは適当にハードディスクに放り込んでおけば(かつ バックアップをとっていれば)、検索すれば判るので----どこにしまった----に関しては気にしなくてもよいわけで非常に便利なツールですが、しかし保存したこと自体を忘れる様では役に立たないわけです。
この冬一番の雪が降った(1日)。測候所は7cmと発表したが、ここではそんなに降っていないようだった。重い雪で竹は折れるし、垣根は重さに絶えかねて形が崩れていた。
こんな日でも用事はできる。近所にある自治センタまで出かけた。途中竹が曲がり道路が半分の幅になっている。しかも坂道で対向車があるではないか。相手は結構滑っていた。
放っておいても溶ける雪ではあるが、車や人の通るところは取り除かねばならない、これが腰によくないのだ。案の定翌日(2日)は天気予報のようには日が照らず、残った雪は凍ってしまった。最低限でも雪かきをしておいて正解だった。
川に降った雪はすぐ溶けてしまうが、この池のように少ししか水の入らないところは、かき氷の最終段階のように、シャーベット状の物が水面を覆うようになる。何事も量によるのだ。
今日は節分。ここでは長年の習慣として、すりこぎとしゃもじを水引で結わえ、それを持って各部屋を回る。しゃもじを持った方が「福は内」豆入りの升を持った者が豆をまきながら「ごもっとも」と大声で言って回る。「鬼は外」はないのだ。以前伊那市の和尚さんにも同様のことを伺った。確認はしていないが、吾が宗(臨済宗)ではこれが案外普通のことであるのかも知れない。
リニア新幹線のコースのことに、長野県の対応が変な具合になっている。詳しくは色々なサイトを見て頂くとして、中身よりその対応の仕方が変だ。
0 か 1 しかスイッチの状態が無く、元寇の時や二次世界大戦の時のように、意に沿わなければ問答無用と、擦り合わせないし交渉することを端からあきらめて(想定しない)ように見える。
長野県から見て、市町村であれば立場が下、国であれば上。県内で完了する事業であれば、企業は下。住民はもちろんである。では今回の JR はどうなのか?上でも下でも同じ立場でもない。そういった組織との交渉は苦手なのだろうな。
「原理原則に従っている」と思うのは自由だが、それは 1 ビットの世界で、人や世の中はもう少し複雑に出来ている。
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2008/4/22 〜 |